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燗酒あれこれ

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燗酒あれこれ 林 ケイ

味にふくらみを持たせて体にもよい燗酒
 普段日本酒は冷酒や冷や(常温)で飲んでいるのですが、気温がぐっと下がってくると、やはり燗をつけてみたくなります。徳利を食器棚の奥から取り出してきて鍋で沸かした湯の中に漬けるものの、いい頃合いというのが難しい。そろそろよいかと引き上げて猪口に注いで試してみると、あら、まだぬるい。うっかりしていると今度は熱すぎる。なかなか思うような人肌に仕上がらない。結局、冷やに戻して、というようなことがままあります。
 でも、燗酒というのはゆったりお酒を楽しむ風情が感じられて憧れでもあります。ひと手間かかっている分、大人の飲み方という感じもするし。この冬はぜひ燗上手になってみたいと、燗酒のこと、少し勉強してみました。
 燗酒のルーツは中国にあって(そういえば、紹興酒は燗しますよね)、日本では平安時代から飲まれるようになったと言われています。広く一般的に広まったのは江戸時代から。日本酒は燗をつけることによって香りにふくらみが出て、味わいがまろやかになることから人気が出たと考えられますが、健康面からもよいとされたようです。例えば、貝原益軒はその著書『養生訓』で、「冷たい酒は痰を集め、胃を損なう」とし、「ぬるい酒が陽をたすけ、気をめぐらす」と燗酒を奨励しています。
 「キリリと冷やして」という飲み方は吟醸ブームが火付け役のようです。

白老のお酒に燗をつけるなら
 日本人の舌は繊細で知られていますが、単に味覚だけではなく、温度による味の変化にも敏感のようです。燗酒も下は30度前後から上は50度以上の幅でその変化を楽しんできました。
 飛び切り燗 55度以上
 熱燗    50度前後
 上燗    45度前後
 ぬる燗   40度前後
 人肌燗   35度前後
 日向燗   30度前後
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 こんなに名称があるなんて、燗酒文化、なんと奥深い。この冬は温度計片手に燗酒にはまってみようかしら。残念ながらこの姿に風情はありませんが。
 とはいえ、お酒の種類によって合う温度というものもありそうです。自分で見つけていくのも一興だけど、まずは指標が欲しい。そこは澤田さんに聞くのが一番。白老のお酒でリストアップしてもらいました。
熱 燗…『金印白老』、『上撰』、『黒松』、『福始』
上 燗…『百二拾二號』、『千寿白老』、『純米白老』など純米系、
    『からから』(本醸造ですが、熱燗だと辛くなりすぎるので、
    上燗がおすすめだそうです)
ぬる燗…『純米吟醸白老』、『登窯』、『豊醸』など純米吟醸系
 ぬる燗は『秘蔵十年酒』、『万寿白老(三年古酒)』といった古酒にも合うそうです。冷やして飲むのが一般的な大吟醸も(ちなみに、冷やしすぎは風味を損なうそうです)、ぬる燗もありとか。また、白老梅も軽く燗をつけると、意外なおいしさを楽しめるそうです。「温度帯によってこれだけ味の変わるお酒は日本酒だけです。いろいろ試して、お好みの温度をみつけてください。脂肪のある肴も(熱で)溶けておいしくなりますので、ぜひ、食と合わせて楽しんでください」というのが、澤田さんからのメッセージです。
 6代目の薫さんには、クリスマスにぴったりのカクテルを教えてもらいましたので、併せてご紹介します。

蔵人リッキー
ベースに無ろ過生原酒を用いたジンリッキー風のカクテル
① グラスにカットライム1/8を搾りいれ、ライムもそのまま入れる。
② ①に『蔵人だけしか飲めぬ酒』45ml、フレッシュライムジュース5ml、
  氷を入れる。
③ 冷えたソーダで満たし、スプーンで軽く混ぜる。

日本酒サングリア
果実を漬け込み日本酒とは思えないフルーティな飲料に
① 梅酒を漬けるガラス容器などに、オレンジ、グレープフルーツ、
  バナナ、桃、りんご、レモンなどを皮ごとスライスしたもの、
  『白老原酒』(今の時期は『初しぼり白老』でも) 720ml、
  お茶パックに入れたシナモンスティック1,2本、
  八角1カケを入れ、数日置く。
② 甘みが足りなければ砂糖を加えて。
③ 適宜ソーダや水、氷で割ってお召し上がりください。

 この冬はひと味変えて、日本酒を楽しみたいですね。

知多の酒 江戸時代の前期 その10

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知多の酒 江戸時代の前期 その11 澤田 研一

 前回、緒川村(現東浦町)に大きな酒蔵が現れたことを書きました。
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 この書状によると、正徳5年(1715)当時、緒川村には仁右衛門、源左衛門、勘兵衛の三戸の酒造家がいます。それ以前には他に勘之助、新左衛門、弥兵衛、七兵衛も酒を造っていたと考えられます。これら3戸の合計は、酒株8,075石、正徳5年造り高1,803石と当時としてはきわめて大規模なものでした。当時、緒川村は衣浦湾にあって最も重要な港であり、他国積みによってこれほどまでに大きく発展したと考えられます。
 しかし、その後安永5年(1776)に申新田、安永8年に北新田が相次いで縄入され、船入がつぶれ、次第に船の出入りが困難になります。そのため酒造業も衰えていきますが、この正徳期は知多でもっとも緒川村が活気があったと思われます。
 一方、半田村も春日井や大野などから株を譲り受け、漸次発展を始めました。半田町史に「而して半田航海業者が此特権(注=尾張手船の免許のこと)を得て、(中略)、尋で宝永・正徳の頃より酒造業漸く発展し来たり、藩庁に於いても重きを半田に置き・・・、半田は酒造航海の両業相須て、商業も亦昌盛に向へるを推知すべし」とあります。
 このように、知多においても緒川村、半田村のように東浦(東側)の酒造業者の台頭が著しい。船の出入りに都合が良い、つまり良い港のある東浦が、大野などの西浦(伊勢湾側)の酒造業者を圧倒し始めたのがこの時代の特徴といえます。因みに、享保9年(1724)の江戸下り酒屋の内訳は、摂津1,011軒、泉州(堺)4軒、尾州72軒、三州57軒、播州(明石)3軒の合わせて1,218軒でした。

3、宝暦の勝手造りと不振期
 元禄酒株体制は、米の豊作による米価の下落と、新規酒造業者=在方酒造業者の台頭によって揺らぎ始めました。宝暦4年(1754)にはじまる「勝手造り令」は、江戸市場において酒荷の供給過剰→酒価の低下を引き起こしました。それは酒造業の経営を圧迫するものであったので、自主的に酒荷の量を調節する“酒造仲間”を結成して、経営不振の打開が望まれました。ここに、強力な酒造仲間である「摂泉十二郷」の初期の姿を見ることができます。
 下り酒の販売の特徴は、本家(荷主)が酒を送ると、出店である問屋が引き取って売り捌くという委託販売の形式をとっていて、本家と出店という関係を持っていたことです。ところが、この頃になると従来の関係は薄れ(新規の江戸積み酒造業者が、従来からの江戸積み産地に取って代わり始めたため)、問屋は荷主から独立した荷受機関に変わり始めました。委託販売、すなわち販売から代金の授受にいたるまで、すべてを問屋に任せていくという取引慣行において、問屋に対抗することが出来る、強固な荷主連合が要請されたのです。
 この頃の知多の情勢が分かる資料を持っていませんが、前後の情勢からみても、大変な苦境にあったことは想像できます。元禄期の酒株体制から時代が変わって自由競争になると、基盤の弱い知多の酒造業者は、他国積みにおいては、前述のように環境の悪化によって経営不振に陥り、ひいては近辺の村々を対象としている酒造家にもその影響が及び不況に巻き込まれていったものと思われます。
 此の頃の知多の廻船業の不振がそれを物語っています。享保2年(1717)、知多の江戸廻船は船仲間の入費を負担することを断ったため、諸国廻船といわなければならぬことになり、海運業ははなはだ衰退していました。
(常滑町史編纂資料「常滑船舶考」)
 元文の頃(1740年ごろ)、知多郡内にある諸国廻船はわずか15艘のみで、元禄の江戸廻しと廻船が二つに分かれていた頃、江戸廻し船50艘、諸国廻し船67艘、計117艘(知多郡史)であったことと比べてその惨状が知れます。

知多の米で知多の酒造り つくり手のこだわりが結晶

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知多の米で知多の酒造り つくり手のこだわりが結晶 林 ケイ

米が基本の酒造り
 じめじめとした梅雨の季節、早く明けてほしいものだと思いますが、明けたところで照り返しの強い真夏の太陽にぎらぎらと見つめられると思うと、あんまりうれしくないような…。
 ところで、私の住む地域には水田地帯があります。実はここが私にとってちょっとした避暑地になっているのです。真夏にクルマで街に出た帰り道、この一帯を通るときは必ず窓を全開にします。直射日光とアスファルトの地熱でエアコンをフル稼働しても効かなかった車内に、さわやかな風が通り抜けていくからです。それまでのぐったりした気持ちが生き返って、ほっとする瞬間で
す。
 そんなときいつも思うのが、温暖化に対する水田効果。ばかにならないと思うんだけどなあ。日本人、お米食べましょう! そして日本酒飲みましょう! ちなみに私、ご飯も日本酒も大好きです。
 閑話休題。白老のお話です。今年も澤田酒造が契約している地元産の酒造好適米(酒米)は順調に育っています。白老のお酒に使う地元産米は年々栽培面積を増やしています。温暖化対策にも役立っているかも!?

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 澤田さんとタッグを組んで酒米を栽培しているのは、土居佐吉さんとその一門、山本善博さん、森田寿一さんの方々です。皆さんもともと飯米を栽培する農家ですが、飯米とはその特性に大きな違いのある酒造好適米を一から研究して取り組んでくださっているそうです。
 さて、飯米と酒米の違いですが、そのお話をする前に、日本酒造りの工程について簡単に説明したいと思います。
 最初に行われるのが麹作りです。精米し蒸した米に種麹を植え付けます。酒屋言葉の中に「一麹、二(もと)、三造り」というのがありますが、麹は米のデンプン質をブドウ糖へと糖化するもので、「麹作り」は酒の味を決めるもっとも重要な仕事とされています。精米から洗米、 蒸米という準備段階から神経を使い、杜氏が先頭に立って作業を進めていきます。
 次は「酛造り」の工程です。酛は別名酒母(しゅぼ)ともいい、アルコール発酵するために必要な酵母を、大量に培養したものです。専用の桶に麹と水を入れ、酵母を添加、さらに蒸米を加え、約半月から1カ月温度管理をしながらたいせつに育てていきます。この間、桶の中では麹が米のデンプンを糖化し、その糖分をえさに酵母がどんどん増殖します。また、酒をだめにしてしまう雑菌を繁殖させない乳酸菌も育っていきます。(あらかじめ酵母といっしょに乳酸も添加する速醸酛という方法もあります)。こうして、濃い、その名の通りの酒の元ができあがります。
 次の工程が「造り」、仕込みともいいます。酛に麹(掛麹)と蒸米(掛米)、水を加えます。醪(もろみ)といいますが、これを長期間発酵させて、いよいよ私たちが飲める酒が生まれてくるわけです。まだこの後に搾りや火入れなどの工程がありますが。

栽培の難しい酒造好適米
 繊細で複雑な日本酒造りはこんなに簡単に説明できるものではありませんが、米と水という至ってシンプルな原料が豊かな味わいをもつ日本酒になるために、米が工程ごとにうまく役割を果たしているということが少しはわかっていただけたでしょうか。
 そこで酒米と飯米の違いですが、見た目にはっきりわかるのが粒の大きさです。酒米は飯米に比べかなり大きく、心白(しんぱく)という中心部のデンプン質が多いのが特徴です。このデンプン質を麹菌が糖化し、それが酵母のえさとなって醗酵が行われるわけですから、日本酒の「基本のき」のようなものです。よい酒米の条件はまずこの心白が大きく、精米歩合を高めても(精米でたんぱく質や脂質の多い外層部を取り除くほど、味や香りがクリアになる)砕けないという点が挙げられます。
 米粒が大きければ、当然ながら稲の背も高く、台風などで倒れやすいので栽培しにくいというのが酒米のもうひとつの特徴です。
 ですが、土居さんたちは品質を高めるために、農薬をなるべく使わずに、デンプン質が多く含まれる稲穂が育つように肥料を厳密に調整しながら(有機肥料栽培レベルのものも)、手間を掛けて育ててくださっています。「地元に誇れる酒があるのだから、地元で取れた米でも造ってもらいたい」(土居さん)という力強い後押しを受けて、地元産の酒米を使った白老のお酒の種類は年々増えています。

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知多の酒 江戸時代の前期 その10

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知多の酒 江戸時代の前期 その10 澤田 研一

 それでは正徳五年酒造米高御改帳について半田町史(210~215頁)より全文を掲げると以下のようになります。

(表紙)
   正徳五年           知多郡
   酒  造  米  高  御  改  帳
   未十二月           半田村
   知多郡半田村酒屋 清右衛門
一米 三十石         古来ヨリ造り高
一同 三十石         元禄十丑年造り高
一同   十石         正徳五未年造り高 但丑年三分ノ一
               同 村 酒  屋 三郎左衛門
一米 四十五石        古来ヨリ造り高
一同 四十五石        元禄十丑年造り高
一同   十五石         正徳五未年造り高
                            但丑年三分ノ一
               同 村 酒  屋 甚左衛門
   知多郡多屋村儀左衛門株譲請申候 正徳三年
一米 六十石         古来ヨリ造り高
一同 六十石         元禄十丑年造り高
一同 二十石         正徳五未年造り高
                            但丑年三分ノ一
   (同人の部附箋に)
一米 六十石         古来ヨリ造り高
一同 四百五十石       元禄十丑年造り高
    六十石       知多郡多屋村ヨリ譲請高
内  二百七十石     春日井郡小牧村甚兵衛高ノ内
    百十石       同村彌十郎高ノ内
一米 百五十石         正徳五未年造り高
                            但丑年三分ノ一
               同 村 酒 屋 源兵衛
   知多郡大野村孫左衛門株譲請申候
一米 十五石         古来ヨリ造り高
一米 十五石         元禄十丑年造り高
一同  五石         正徳五未年造り高
                            但丑年三分ノ一
               同 村 酒 屋 三郎兵衛
   知多郡大野村源左衛門株譲請申候 正徳三巳年
一米 六十石         古来ヨリ造り高
一同 六十石         元禄十丑年造り高
一同 二十石         正徳五未年造り高
                            但丑年三分ノ一
               同 村 酒 屋 清左衛門
   知多郡大野村孫左衛門株譲受申候 宝永五子年
一米 十五石         古来ヨリ造り高
一同 十五石         元禄十丑年造り高
一同  五石         正徳五未年造り高
                            但丑年三分ノ一
               同 村 酒 屋 伊兵衛
   知多郡粂村伊兵衛株譲請申候 宝永四亥年
一米 五十石         古来ヨリ造り高
一同 五十石         元禄十丑年造り高
一同 十六石余        正徳五未年造り高
                            但丑年三分ノ一
               同 村 酒 屋 清三郎
一米 三十石         古来ヨリ造り高
   知多郡成岩村喜左衛門方ヨリ譲請所持仕候當時
                      酒造り不申候
               同 村 酒  屋 吉右衛門
一米 三十八石株
   知多郡有脇村新三郎方へ請遺申候
  右書上申候通り少茂相違無御座候以上
正徳五年未十二月  知多郡半田村 庄屋 仁左衛門 印
右之通り書記桜井作之右衛門殿へ差上申候
 但 正徳六申十二月甚左衛門酒株増申候に付甚四郎罷越名古屋にて帳
面仕直し清兵衛にて上げ申候
   郡御奉行所様
右ノ書付荒尾喜左衛門様ヘ差上相添申候
一米  五石         古来ヨリ造り高
一同  六石         元禄十丑年造り高
一同  二石         正徳五未年造り高
                            但丑年三分ノ一
右ノ酒株春日井郡清洲村太左衛門所持仕り罷在候處今度私方へ譲請申候
御帳面御記替被遊被下候様奉願上候以上
   享保五子十一月  知多郡半田村願主
                  清  兵  衛  判
右ハ太田庄左衛門様ヘ上ル

これらをまとめてみると、表1-3のようになる。

表1-3 享保5年 半田村酒造株所持者
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                         (備考)半田市誌293頁より引用

 これらによると半田村の場合、享保5年までに他村から株を譲請けた者が7軒あり、うち1軒は休業中である。古来からの酒造家2軒のうち1軒は増株を行ない、株高は1,034石に増加している。規模も、甚左衛門450石、清右衛門333石など、かなり増加していることがわかります。半田町史には「其実際の造石高は幾許ありしやを詳かにせずと雖も、五石や十石の株高にては到底酒造業の為し得べくとも思はれず、恐くは其幾倍を醸造せしものならん」とあります。今まで記してきたように酒造の統制はたいへんきびしいものがあり、それ程のことはないと思われます。しかし、多くの酒造家はまだ規模が小さく地売型がほとんどだったようですが、一部は他国積みを行っていたと思われます。
 緒川村の場合は更に規模が大きく、明らかに地元消費型を脱皮しています。以下、緒川村酒屋造米高帳(緒川区所蔵)によって、その内容をみてみます。(次号へ続く)

知多の酒 江戸時代の前期 その9

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知多の酒 江戸時代の前期 その9 澤田 研一

 前回、原料の米について触れましたが、また横道にそれて目を現在に転じてみると、ここ二十年ほどの間に米価が高騰した著しい不作は二度ありました。93年は冷夏と長雨のために作況指数は74、戦後最悪の凶作の年です。米の緊急輸入が9年ぶりに復活したものの、まずいだの何だのとさんざんっぱら不評でした。消費者のわがままさを感じたものですが、清酒製造業者として、原料の米が手に入らない恐怖も感じたものです。その後03年も冷夏で作況指数は90でしたが、自社の田で酒造好適米を栽培する決意をしたのはこんな背景があります。
 日本人一人当たりの米の消費量は62年がピークでしたが、その後米離れによる消費の減退が長く続き、07年の数字では年間一人当たり61,4kgとほぼ半分に落ち込んでいます。
価格もすこしずつ下がってきていて、自分で作るより買えばよいのだと思っていましたが、
もう少し供給をしっかり対策せねば、ということです。昨今価格は作況というより政治的な要因で左右され、たとえば07年作況は99でしたが、市場に荷余り感が出て新米価格が下がり始めたため、政府が34万トンを買い上げて米価は下げ止まりました。本年も作況は良かったものの、肥料代や燃料コストの増大もあってその救済的な意味から同じ事が起こっています。ただ、需給は正直で、無理な調整が消費量に反映されているように思えてなりません。
 さて、時代を元に戻して、前回、米価調節のために酒造業が利用され始めたと書きました。享保17(1732)年の全国的な大飢饉のために一時米価が高騰したため18年に「造酒屋之分春造米買置候分売払、今年春酒相止可申」減醸令が出されます。それもつかの間、ふたたび米価が下落し始め、享保20(1735)年にはついに米の最低価格を定めて下落防止に躍起となりました。酒造業もふたたび黙認され、統制の枠が完全にはずされ自由営業となり、宝暦4(1754)年にいたって、「元禄十五年之定数迄者新酒寒造等勝手たるべし」と『勝手造令』が発令されたのです。
 つまり、需要に応じた供給量の調整を、幕府自ら掌握して、米価調節と領主財政の安定を意図するという、元禄期の酒造株体制を覆すものでした。この転換期にあたって、「幕初以来の在方酒造業禁止の政策も弱まり、営業特権としての酒造株の譲渡売買が自由となり、酒造業それ自体に競争契機が導入され」てきたのです。その結果、今までの特権を保証されてきた伊丹、池田を中心とした酒造業者は動揺し始め、都市酒造仲間による独占と、領主による保護もまた動揺を向えることになりました。日本の酒造業界に君臨してきた灘目の台頭は、実にこの時期に始まるのです。
 元禄時代は、江戸も地方の城下町も、まさに町人繁栄の時代でしたが、ここに農民的商品貨幣経済の発展と、そこから生まれた在方商人が大きく頭をもたげ始めていました。後々幕藩体制を崩壊させる要素がすでに胎動を始めていたのです。

正徳五年酒造米高御改帳
 さて、この元禄酒株体制が動揺し始めていた正徳6(1716)年、尾張藩は村々に新株高(つまり元禄十年の造り高)と、その後の移動を報告させます。尾洲全体では古来より造石高18952石余、元禄十年造石高21066石余、正徳5年造石高7022石余と報告されています。(半田市誌)この中身を見てみると、他の地域から酒株を譲り受けたりしながら、知多の酒蔵が大きくなっていく過程がうかがわれます。特に東浦には今の基準でも結構な規模の酒蔵があって、明らかに地元消費型からの脱皮が見られます。そんな中身は次の機会に書きたいと思います。

米と水だけ…だからこだわる(酒米について)

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米と水だけ…だからこだわる(酒米について) ~林 ケイ~
ご飯としては落第?
 今年も蔵の中に新米の米袋が高く積み上げられる時期がやってきました。夏場蔵の中を通り抜けると、空っぽの米置き場が目に入りしんとして寂しいものですが、秋になって各地から米が届き始めると、よい知らせが届いたときのように蔵の中は急にあわただしくなって活気が漲ってきます。
 白老の蔵に各地から届く米はそのほとんどが酒米(正式には酒造好適米)と呼ばれるもので、私たちが普段ご飯として食べている米とは違うものです。酒蔵開放などで白老の蔵を訪れたことのある方は、実際の酒米をご覧になったかもしれません。食用米に比べて粒が大きく、澤田さんからご飯として炊いてもおいしくないという説明を受けませんでしたか。
 酒米がご飯には向かない…、なぜなのでしょうか。
 ちょうど今は新米が出回り一年中でもいちばんご飯のおいしい季節ですが、私たちが喜ぶ炊き立て新米ご飯のふわっとした香りや口中に広がる甘みと適度な粘り気、実はそれらはお酒にすると雑味となって、酒造りには邪魔なものなのです。
 酒造の世界では米は外側が硬く内側が軟らかくなるように蒸します(酒造りでは米は炊くのではなく蒸す)。よい蒸し上がりの状態を酒造用語では「さばけがよい」と言いますが粘りがなく、しかも雑味の素となってしまうタンパク質や脂肪分などを含む外側の部分はほとんど精米で削ってしまっているので、食べても私たちが思うご飯のようなうまみはないのです。
 酒造りで米に求めるものは質の良いデンプンです。デンプンは酵母がアルコールを作るときに必要な成分です。酒造のために品種改良された酒米の中心部には心白と呼ばれるデンプン質の塊があります。よい酒米の条件は、心白の部分が大きく米を深く精米しても砕けない、またタンパク質の含有量が少ないなどが挙げられます。
 酒瓶のラベルを見ると、原料やアルコール度数の他に精米歩合が記されているものがあります。例えば純米吟醸の豊醸は精米歩合55%、純米酒の百二拾二號ですと65%となっています。これは雑味を取り去り、より香り高くうまみのあるお酒を造るために、残り55%、65%のところまで米を磨いているということですが、食用米ではこんなに磨いたら砕けてしまいます。

品質プラス安全にも配慮
 酒米の品種で有名なのは山田錦ですが、他にも地方自治体がそれぞれの気候風土や自然条件を生かして作った銘柄など、たくさんの種類があります。ちなみに澤田酒造のある愛知県で有名なのは若水です。
 白老のお酒に使われている米をご紹介しましょう。
 兵庫県産特A山田錦、広島県産千本錦・八反錦、富山県・福井県産五百万。
 この他、契約栽培米(愛知県半田市、知多市)の若水、日本晴があります。
 これだけの品種を使い分けることについて澤田さんに聞くと、「うちのお酒は米のうまみを活かしていく造り方なので、味の特色のある米を求めていくうちに品種が増えました」とのこと。例えば、山田錦は大吟醸や純米吟醸に、千本錦や八反錦は吟醸、純米吟醸に、五百万石は純米、本醸造などに主に使われ
ています。また澤田酒造では麹米や酒母だけではなく、掛け米にも酒造好適米を使っています(主に五百万石、若水など)。もろみを仕込むときに加える掛け米には酒米より値段の安い普通米を使うところも多いようですが、ここは白老のこだわりと言えそうです。
 また、将来にわたって確実に安全な原料を手に入れるために、この数年は自社田で若水の減農薬栽培にもチャレンジしています。ここで収穫したお米は2年ほど前から初しぼりや純米酒に使われていますが、年々収量を増やしていく予定なので、これからもっといろいろなお酒の中で出会うことができるようになるでしょう。
 今度白老のお酒を飲むとき原料米のことも少し考えながら味わっていただくと、また面白い飲み方ができるのではないでしょうか。
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知多の酒 江戸時代の前期 その8

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知多の酒 江戸時代の前期 その8 澤田 研一

 「元禄十年酒株帳」について、前回書きましたが、近世灘酒経済史によると元禄10年(1697)の江戸入津数は64万樽で、その主産地は摂津では大坂、伊丹、池田、尼崎、兵庫、西宮に鴻池、清水、大鹿、山田、小浜、富田、三田、それに泉州堺の上方名醸地をはじめ、尾州、三州、濃州、勢州の諸地域があげられています。
 因みに64万樽といえば1.8リットルビンで2千5百万本!、ちょっといい加減(調べなくてすみません)ですが江戸の人口を仮に2百万人とすると、一人13升を一年で飲んでいたことになります。子供や女性(はあまり飲めなかったと思います)を除くと、いやはや今の人よりたくさん日本酒を飲んでいたことになります。
 さて話がそれましたが、前回書いたように元禄8年ごろから尾張手船の免許が知多の港におりて、江戸積みが始まりました。「愛知縣特殊産業の由来」(下巻)によると「この時代(註 元禄十年ごろ)には尾張手船と称して尾張藩の御用船が半田港を中心に活躍した時代なのであったから或は知多酒が遠く江戸の方まで移出されたかもしれないが、多くは駿遠地方を主な販路として或は清水に或は沼津地方に得意先を持ってゐたものである。」とあります。江戸よりも、知多の酒は静岡方面が主体であったようです。
 産業としての酒造り、というのはもともと神様にお供えする酒が商品化していくことなのですが、話のそれついでに、一般に商工業としての酒造りの始まりは、平安朝の初期、朝廷の造酒司が設けられたときに始まるといわれています。当連載は江戸時代の中期からスタートしましたが、その前の知多の酒をごく簡単に見てみると、このいわゆる朝廷の酒の流れをくむ酒がすでに造られていたようです。「半田町史」によれば「延喜以前尾張国は已に酒の名産地に
てありしが、延喜式伊勢太神宮六月々次祭の條に
 神酒二十缶 伊賀国ニ缶 尾張国三缶 三河遠江各一缶
とあり、また九月神嘗祭の條に
 神酒二十缶尾張云々等国各一缶並以神税醸造
とあるに據れば、尾張は古代より醸酒の産地たるを知るべし。殊に其『以神税醸造』との一語は当時半田以南の地が贄代即ち神領たりしを以って之を見れば、或は当地方なりしやも知るべからず」とあります。よくわかりませんが大
化以後、知多五郷の中贄代郷(半田~河和)は大神宮と関係が深かったのは事実で、このあたりのことは詳しい方にお任せしたいと思います。

正徳期の酒造情勢
(1)元禄酒株体制の動揺
元禄十年酒株帳に続いて知多の酒造の全容を知ることができる資料に、正徳五年の酒造米高御改帳があります。それに触れる前に、まず、この御改帳が出されたころ、1700年から1730年ごろの情勢についてみてみましょう。
 元禄12年にうちだされた“五分の一造り”の減醸令は、同年64万樽であった江戸入津樽数を翌13年22万樽にまで激減させ、酒の値段は高騰しました。つまり、幕府の意図はいちおう達成されたといえます。以後宝永5年(1708)まで、五分の一造り令は続きますが、其の間、運上金逃れの密造が澎湃として起こり、幕府は酒造取締りに腐心する有様でした。
そして酒価の高騰は世情不安にまで発展してきました。宝永6年には運上金はわずか6000両に過ぎず、初期の運上金によって財政を補おうとする意図とはかけ離れたものとなるに及んで、効少なくして弊害のみ大きいことを悟った白石は同年「酒運上向後御免候、御料私領とも可被存共趣候」と触を出して酒運上金を廃止し、同時に酒改方も廃止しました。そして、正徳五年(1715)には元禄十年の三分の一造りとして、統制緩和の方向へ向かうことになりました。
それに輪をかけたのは、享保10年以降の米価下落でした(別表参照)。連年豊作が続いて米価が下落すると、それは貢租米の換金によって自らの財政を賄っていた幕藩領主階級にとっては由々しき一大事です。幕府は米価引き上げ策として、買上米奨励、廻米制限、町人買米令の諸政策を行うとともに、酒造米購入奨励策をうちだして、積極的に米の消費を推進していきます。ここに来て、米価の調節手段としての酒造業がクローズアップされてきたのです。
以後、清酒製造業という、日本人の食の根幹“米”を原料とする産業は、米と米に関するさまざまな外部要因に影響され、翻弄されながら発展していくのです。
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160周年、そして六代目のお披露目

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160周年、そして六代目のお披露目 ~林 ケイ~

発酵仮面登場
 5月10日、澤田さんの蔵で創業160周年の記念イベントが行われました。
 当日はあいにくの雨空となってしまいましたが、百名を超えるお客さまが各地から参集し、今は静かに熟成の時を送る蔵の中がときならぬ賑やかさとなりました。
 皆さんが楽しみにしていたのが、東京農業大学教授小泉武夫さんによる酒蔵講習会です。
 小泉先生は、「発酵仮面」や「食の冒険家」、「味覚人飛行物体」など楽しい異名をお持ちで、農学博士以外にも、エッセイスト、小説家、発明家と多くの顔を持ち、テレビやラジオでもその多才ぶりを発揮し親しまれています。実は澤田研一さんは東京農大在学中に若き頃の小泉博士に教えを受けたことがあるのだそうです。
 そんなことから実現した講習会は、蔵の2階で行われました。ここは麹を乾燥させるために使用する場所で、専門用語では「枯らし場」と呼ばれるところです。天井には太い梁が剥き出しになっていて、屋根を支える太い柱や磨き込まれた床などから、昔ながらの酒造りにこだわる白老の姿勢が伝わってきます。普段なかなか足を踏み入れることのできない場所ですから、集まった人たちも興味深げにあちこち眺めていました。
 そんな枯らし場の隅に麹造りを行うときに使われる麹蓋(こうじぶた)という道具が積み重ねてありました。小泉先生は、講演の中でその麹蓋に触れ、「麹蓋を使って酒造りをしている造り酒屋さんはもはや全国で10軒あるかないか。(ここまで昔造りにこだわっているのは)食の世界遺産といってもいい。こんな酒屋が地元にあるのは文化の誇りと思って大事にしてください」と、ご実家が福島に代々伝わる造り酒屋さんだけあって、さすがの観察力です。白老さんの蔵には、麹蓋の他にも甑(こしき)や暖気樽(だきだる)など、手造りにこだわる酒屋さんでもなかなか見かけることのできない道具がたくさんあります(しかも、現役で使われているのだからすごい)。
 小泉先生のお話は、現代の日本酒事情から輸入に頼る日本の食の安全性の問題、さらに江戸時代や平安時代の日本酒の話と、興味深い内容が次々と繰り広げられました。特に聞き手が思わずメモってしまったのが、白身の鮨にぴったりという「煎り酒」の作り方。江戸時代の文献に出ていたそうですが、さすがグルメとしても名高いだけあって、おいしいものをよくご存じのようです。

蔵に薫風が吹き込んで
 講演終了後は、蔵の中庭を囲む形で酒宴が催されました。卓上には、白老の酒と澤田さんご夫妻が厳選した酒肴が次々と提供されました。地元知多半島の新鮮な食材はもちろん、かつてこの蔵で酒造りを行ってきた蔵人の故郷、能登と岩手県南部からも肴が届いています。
 中でも、能登のふぐの卵巣の糠漬は珍味中の珍味です。ふぐの卵巣にはテトロドキシンという毒が含まれており、1匹のふぐの卵巣で5、6人が死に至ると言われています。その毒を塩と糠に3年以上漬けて抜くという製法は、石川県にだけ伝わっているものだそうですが、なぜ毒が抜けるのかはいまだにわかっていないとのこと。
 これを経験的に知るまでに、どれだけの人が危険な目に遭ってきたことか。日本の伝統食の奥深さ、知恵のすばらしさをしみじみ実感します。小泉先生にお聞きしたところ、このように猛毒を抜いてまで食べる食品というのは世界的にもあまり例がないということでした。でも、昔の人がそこまでして食べたかった味はまさに日本酒にぴったりで、盃がお酒を求めて蝶のようにひらひらと舞ってしまったのでした。
 閑話休題。さて、かくも盛大な160周年記念の会が催されたのには、ひとつ大きな理由があります。
 昨年10月1日に、一人娘の薫さんが六代目を継ぐことを決心され、澤田酒造に入社しました。小泉先生も講演の中で、昭和40年当時4千軒近くあった酒造会社が現在その半分以下、今の日本酒造りの現場を「残っているだけたいしたもの」と評しましたが、ひとつの蔵を受け継ぐ決心は簡単にできるものではなかったと思います。
 澤田さんも、ご自身の苦労をお嬢さんに継がせることに忍びない思いもあったのでしょう。かねてより、後継者問題を無理強いするつもりはないと言っていましたが、やはり薫さんの決意は相当に嬉しかったとみえ、普段あまりご自身のことは口にしない人ですが、会に先立つ挨拶の中で、薫さんの決意を受けて、これだけ盛大な会を行うことにしたことを発表したのでした。
 薫さんもその思いに応えて、当日は準備、司会、お料理のお運びなど、八面六腑の活躍でした。今季の造りには杜氏をはじめ蔵人たちも一段と力がこもったようで、全国新酒鑑評会で3年ぶりの金賞受賞の吉報も舞い込みました。すでに薫さん効果で、蔵の中には薫風が吹き込んでいるようです。
 まだまだ修行の身、本当に六代目に就任するまでは学ぶこともたくさんあり、大変なことも多いと思いますが、ぜひ頑張っていただきたいと思います。白老ファンの皆さまも応援をよろしくお願いいたします。

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知多の酒 江戸時代前期 その7

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知多の酒 江戸時代前期 その7

 大変読みにくいこのページをご覧くださっている皆様にお礼を申し上げます。これは昔、そう、今から三十数年前の私の卒論をたたき台にして書いています。最近は知多の醸造業についても、日本福祉大学の知多半島総合研究所を始め、ずいぶんいろいろ研究が進んできています。そういう新しい資料はまったく反映しておりませんし、歴史をもっぱらにする方々から見ると、まったく資料的価値のない文章ということになるのでしょうが、昔は知多半島に造り酒屋がいっぱいあったと話に聞きながら、右肩下がりの状況を見て、これからどうも酒造りを継がねばならないと、あきらめかかった学生時代の私が、衰退している原因を調べたら何とかもう一度成長産業になるのではないか、そのためには成長した歴史と要因を調べてみようと思って調べたものです(ふ~、ながいセンテンス)。・・・、ということでたいしたものではないのは承知ですが、調べる中で、先人の方々の大変な情熱と努力を感じましたので、連載させていただいている次第です。
 さて、言い訳が長くなりましたが、本題に入ります。今号からいよいよ知多酒発展の要因に触れていきます。

元禄十年酒株帳
 近世灘酒経済史によると、「この元禄十年の株改めは、明暦三年(1657)の酒造株設定後、寛文五年(1665)の第一次株改め、延宝七年(1679)の第二次株改めに続く第三次株改めで、その背景には、幕藩的な商品流通機構の拡大と大坂への全国からの廻米量の増大によって、異常な発展膨張をきたした酒造業を、米価調節に必要な造石高の基準を設定して、幕府の主導権の下に直接これを掌握し、領主経済及び幕藩体制の存続維持の上から、酒造株体制の確立を図ったものであった」(序論15ページ)とあります。
 この「酒造株」というのは、酒株とも言われ、明暦三年(1657)、いわゆる八百屋お七の振袖大火によって江戸の町の大半が焼失してしまって、米の価格が暴騰したとき、折からの全国的な不作も手伝って食料不安が訪れました。そのため、幕府は一時酒造りを禁止して、新しく、特定の業者に対してだけ米の使用高を明記した株を交付したのに始まります。
 元禄十年、幕府は直轄領に酒屋頭を設置した上で、酒の値段に50%の運上金を課徴しました。これは幕府が課した最初の税といえるもので、もろみの造石高を調べて課税する「造石税」的なものでした。更に同十二年、請株高の「五分の一造り令」を発して、より厳重な査定方式に基づいて酒造等統制策を進め、減醸によって酒の値段を高騰させ、その高騰分を運上金として吸収しようとしたものでした。財政難に直面した幕府が、台所を酒造業によってまかなおうと考えた政策だったわけです。
 このような減醸規制は、見方を変えると上からの生産調整といえるもので、酒造収益の確保を保障するものでした。同じく近世灘酒経済史によれば、「減醸規制は一見酒造抑圧策のように見えるが、生産制限によって酒価を高騰させ、酒造収益を上から保障するものであった。もし上からの減醸令がなければ、市場充溢から酒価の下落を防止するために、酒造仲間による下からの自主規制によって酒造収益を確保してゆく動きも見られる。(たとえば宝暦~安永期、化政期)。 いずれにせよ、何らかの形の生産調整は酒造業にとって酒造収益を確保してゆくための必須条件であった」とあります。
 いささか落ち込む結論ですが、これが現実であったようです。一方、元禄十五年「田畑造り候百姓」の酒造禁止、「帳はずれ」の新規営業者の輩出禁止などを通しての酒株確認などによって、酒造特権を幕府が保障したといえるものであった。これによって、明暦三年に始まった酒株制度が集大成され、江戸時代前期の酒税体制が確立したといえるのです。
 尾張藩の酒造政策を見てみると、「寛文五巳年、始て造酒米員数改、延宝九酉年、酒造米改有之」(名古屋叢書続編第三巻)とあり、元禄十年の株改めはこれらに続くものです。この株改の際、知多郡酒支配を命ぜられた大野村仁右衛門、緒川村仁右衛門のうち、大野村仁右衛門(そう、あの木下仁右衛門のことです)が横地仁兵衛というものから取り寄せて写し取った酒株帳があります。実物も現存するそうですが、大野町史から見てみると、当時(元禄十年以前の)知多郡の造石高は米〆て4511石5斗で、醸造戸数は114軒です。表の1-1は百石以上の原料米を使用したといわれる村の名と石高を表したものですが、大野村が跳びぬけて大きかったことがわかります。以下、、東阿野村、緒川村、横須賀村などがこれに続きますが、緒川村を除く3村は西海岸伊勢湾側にあり、“西浦”が発達していたことがわかります。
 元禄11年に調査された全国の醸造戸数と醸造米高は、戸数2万7571戸、醸造米高90万9337石であり、知多半島はそのうちの約5%ほどを占めていて、すでにかなりの産地であったと思われます。しかし、この時代は伊丹、池田などの地方が最新の酒造技術「諸白」をもって酒造界に君臨しており、まだまだ知多の酒造業としては揺籃期にあったといえます。

 若干おまけとして書きますと、杜氏制度という酒造り専門職の集団もこのころできました。この時代、正確には寛文十一年(1671)、幕府はその成果を挙げるため、酒造りの「年中勝手造り」を禁止して、米の豊凶と収穫高が確認できる秋の彼岸以降に酒造りを集中させる「寒造り令」を出しています。このことにより、今まで年間を通じて行われていた酒造りは、季節集中生産に移行し、それは見込み生産せざるをえないことを意味します。そこで仕込みの大型化、生産規模の大型化が行われ、また酒造りに携わる人々も、農閑期を利用した専門集団にゆだねられるようになっていきます。ちなみに伊丹池田では元禄年間池田に38、伊丹に43の酒造業者があって、千石以上の製造を行う酒造業者も数多くいたということです。
 今まさに季節雇用の蔵人さんたちは絶えようとしていますが、現在までの酒造りの大きな枠がこの時代に出来上がったのです。

知多郡内生産石高

村名酒造米石高
大野村1090
東阿野村520
緒川村291
横須賀村206
西大高村200
長尾村180
大里村150
成岩村150
乙川村130
宮津村116
須佐村115
半田村105

(註)大野町史278頁より

知多の酒 江戸時代前期 その6

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知多の酒 ~江戸時代前期 その6~

 さて、聞いたことがある名もあれば、まったく見当のつかない名前の酒もありますが、山下勝氏の著書から引用させていただいて、これらの酒の製法を木下仁右衛門家伝の「酒造法秘録」(元禄2年)よりみてみましょう。
〇御忍冬酒 家伝
一、上々吉焼酎一斗 一、上々金銀花五十匁 一、丁子(花を去り)
五匁 交趾(あわを去り)五匁
各布の袋に入れ右生布の内に仕入れ、日数夏は三十日程、冬は
五、六十日程過、生布においなき時右之の薬取上げよくすみた
る生布一斗に上々吉古美林二升入樽に仕入、三度おりをぬき
酒よきあしきのみ合口傳
〇御保命酒 家伝
一、上々吉美林一斗 一、忍冬酒三升 右合酒してのみ合口傳
〇陳多酒方大唐獨立 家伝
一、人参一両 一、白芍薬一両 一、白本一両 一、当帰一両
一、茯苓一両 一、黄氏一両 一、川苓一両 一、肉桂一両
一、地黄一両 一、月二匁 一、枸子二両 一、山薬一両 
一、苡仁一両 一、伍加皮三両 一、生地黄十両 一、黒豆五
十匁 いり皮去る 右十六種各粉にして正味なり
一、氷砂糖二百目一斤にして(但一斤半) 一、白蜜二百五十匁(但
一斤半あはをとり) 一、上々吉諸白担二升
一、上々吉焼酎但一升 一、生の五加皮十両(担上皮を去り中のし
んを去り木つちにて打ちたたき正味十両を古諸白五合入もみ合
此汁を調合薬に入る)薬の目各正味なり
右各一つ一つ調合してよきかめでもつぼでも入れ地にうつみ
歳久しき程よし、夏ならば二七日、冬ならば三七日過ぎて右の
酒きぬにてしぼり出す。
〇忍冬酒 家伝
一、上々せうちう 一斗 一、いばらの花 一斗 
一、葱冬花 一斗
右二色の花せうちうに入ひたし七日過薬はすてよくこして
一、こしらへせうちう 一斗三升
一、上白もち米(こわいにして、よくさし)
一、白花こうじ 七升
各一つにしてふたよいたし毎月十五日かいを入れ美林酒のこと
く作り上げる酒也。
〇殿様白梅酒の法 五味傳左衛門之傳受(元禄七年戌二月吉日)
一、新諸白 一斗 一、餅米 一斗(但くろ米)
 上もち米こわいに蒸し、よくさまし右の一料の酒にひたし七日の内朝と晩の五つと両度まわし、七日目に桶の口を風が入らざるようにはり、廿四五日過ぎ口を明けて右のこわいをしぼり、又もち米上白を五升引わりにして能加減に蒸し、よくさまし、右の汁へ入れ、よくくだき、ふたをとくといたし、口をつつみ置き、十四五にちめによく候。寒に造り候へば酒いつまでも持申候へども酒のことの外少なく取れ候、二月時分作り候へば外く出来申候へども久しく持た
ず、然れどもよく冷える処に穴を堀りかめに入置候て、口より風の入らざるように般し候へば五六月迄持つなり、寒作五升申候、二月時分作り申し候には引きわりのもち米一升か二升多く入申候がよく候、引きわり多く入れ申すほど酒あまく御座候
〇夏白梅酒の法
一、上場白もち米(よくむし成程さまし) 一、上場一番しゃうちう
八升 一、白花かうじ白米五升(但白花かうじを右八升の焼酎にて
もみ合かうじの花ばかり身をすて)
右之通美林酒仕入申様に作立日数五六十日過し、一、白さとう
美林酒一升内七十匁程入よくこし、すみし所にて調合是は白梅調
合の時

 山下氏によると、以上の製法をみると「忍冬酒」「陳多酒」は薬味酒であり、白梅酒は大量にもち四段をした甘い酒で、現在のみりんと変わらないものであると思われるとのことです。
ファイル 33-2.jpg ところで、このような酒の製造方法はどこから伝わったのでしょうか。木下仁右衛門の父木下宗貞は将軍家光公にも御目見えして、諸大名にも出入りし、京極道長にも愛されていました。したがって、江戸にいたときに、これらの製造方法を手に入れたのかもしれません。仁右衛門は舟改役をしていた関係上、諸国の知識に詳しかったのかもしれません。灘酒沿革誌(第一編)によると
保命酒
備後ニ産スル所ナリ其ノ由来、詳ナラス
然モ三備ニ酒ヲ産スルハ蓋シ久遠ナリ和
名抄箋註ニ又按吉備見賦役令義解、蓋
謂加須古米、萬葉集丹生女贈大宰師大伴
卿歌、有吉備能酒、蓋謂之也、庭訓往来
亦有備後酒、ト見ユ其ノ蓋謂之也トハ
■ヲ云フナリ、かすこめト訓ス其ノ節、
■ノ下ニ詳ナリ酒史新編ニ云フ古有吉備
酒、近世備前有兒島酒、備後有保命酒、
廣瀬建詩曰、東坡僅三焦。太白乃一斗。惟酒不量同、我似蘇家叟、
獨愛君家保命春。纔傾半盞、便殆神請甘露仙人醤味。不屬鯨吸午飲
人。ト即チ是ナリ
とあり、各地に保命酒があったことがわかります。備後あたりから伝わった可能性が一番高いと思われます。
 現在も広島県尾道の鞆荷は保命酒を造っている醸造家がありますが、福山市史によると「鞆保命酒屋の初代は中村吉兵衛であるが…、承応二年(1653)の秋、難波の大洪水で産を失い商事を見合わせていたところ、上坂中の鞆浦杜氏万古屋と知り合い、其の縁で明暦元年(1655)冬鞆津に下り…、万治二年(1659)春、父利時から相伝の薬法によって焼酎を主原料とする薬酒を試醸し、鞆奉行に願い出て藩の許可を受けその製造販売を始めた。」この製法は厳重に守られていたものの「延宝元年(1673)藩の酒造株制定に際し、奉行藤井六右衛から名酒薬法の提出を命ぜられたが、秘伝の儀を持って断ったが許されず、やむなく提出して酒造株を許されている」とあります。その後鞆の造り酒屋の中でいろいろなドラマが演じられていくのですが、それは別のこととして、海運の関係で縁も深く、当地に製法が伝わったものと思われます。

澤田 研一

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